■自己意識(2):「私的自己意識」VS「公的自己意識」

自己を意識する場合に二つのタイプがあります。一つは「私的自己意識」であり、自分の内面側に関心を向けて、失敗や成功の要因を常に自分の態度や行動の面から見直したりするタイプです。自分の独自の個性や考えを大事にし、他者がどう思うかよりも自分の在り方や価値観を優先していきます。その点では哲学や心理学を学ぼうとするような人はこのタイプといえます。

他方で「公的自己意識」が高いという場合は、外部の人が自分をどうみるかを気にし、社会と自分のつながりを優先しようとします。世間がどう思うかという日本人的な意識もこのタイプになってきますが、必ずしも他者に依存しているわけではありません。共感を大事にしていく面があり、スポーツ観戦と選手の一体感を生み出すような働きをするからです。

私的か公的かは同じ人物であっても、場面によって選択的にそれを選んでいることがあります。たとえば、サッカーのワールドカップで会社仲間と一緒に日本チームを応援しているときは公的自己意識が強くなっても、仕事では互いがプロとして批判的であり、お互いが競い合うような営業をしているといったことがあるのです。

つまり、私的か公的かはどんな活動のスタイルを選んでいるのか、その場の活動の目的によって変わってくるという認識が決め手になってくるということなのです。ただし、ここで注意が必要なのは、鏡を自分の前に置いたりして自分の姿がすぐ視えるようにしておくと私的自己意識が高まるということがわかっていることです。

自分の行動や姿を見える化するわけですが、すると通常のとき以上に自分の立ち振る舞いに対して他者の視点から客観的にみるような傾向が高くなるのです。これは公的自己意識が働くという点では私的自己の否定のように視えます。ですが、他者の視点というよりも自分の客観的な姿をながめる自己がそこにいるということから、公的自己意識の第三者的な「THEY意識」(※佐伯胖)の側面を強調するものだといえます。

それに対して、サッカーチームを応援する場での公的意識は共感をベースにしている点から、「WE意識」(※佐伯胖)が前面にあるということです。WE意識には互いの共感が軸になり、絆を強めるようなことが幸福感情を高める効果があります。それによってアドラーのいう「共同体感覚」も高くなり、望ましい人間関係を創るうえではプラスとなるという効果があります。

 

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自己意識の理解(1):自己の「認知的制約」

認知心理学では認識の限界を表す「認知的制約」(cognitive constraint)という問題を多くの実証実験で検証してきました。これはどのような記憶・思考・感情であっても、その場の持つ物理的な“状況性”とどんな時間の流れの中で変化してきたかという“歴史性”、そして多様な価値観が含まれる“文化性”によって制約されてしまうという面を強調しているのです。こうした制約の3つの特性は具体的な認知プロセスとして分析する必要がありますが、ここでは“制約”という意味をもう少し具体的に理解しておくことが重要です。

キャリア教育でも人生の選択が問われますが、この場合に選択する行為がどこまで「自由意志」によるものかは心理学だけでなく哲学の問題ともなります。たとえば、自分で〇〇銀行に就職先を決めたとする場合、それは自分の意志で自由に決めたように思われます。

ところが、その決定のプロセスを辿っていくと、希望する銀行の選択が大学卒であるだけではなく、学部や大学偏差値のある一定レベルでないと受からないような“基準”が就職活動の中でわかってきたりします。自分が所属する大学がすでに面接など受ける手前で、当人の能力で評価される前に何らかの暗黙のカベで仕切られてしまっているというわけです。

こうした社会的な慣習や文化の中にある暗黙のカベを知ってくるのです。つまり、自己のキャリアの選択はすでに文化的要因により、経営学部のある偏差値〇〇以上のような条件が課されているといえます。ある意味では「常識」それ自体が認知的制約になっているのです。

哲学がテーマとしている「自由意志」の説では、人の道徳や倫理の価値基準などの選択は当人が判断する自由意志によって決められるとします。ところが、“自由”という無限定な“意志”は心理学からすると社会関係や文化などから制約を受けており、そうせざるを得ないような慣習や常識などの心理要因が全体として絡んでいるものとみなします。

ドイツの哲学者カントが述べたことでも知られるように、自由意志は社会的な活動のプロセスにおいて“制限”されているのです。それをどこまで意識的に気づくかは学びの質と量によって変わってくるといえるでしょう。

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エンターテイメントの心理学(1)

■「エンターテイメント」の心理学:エンターテイメント性の分類

 

エンターテイメントの心理的要因については、次のようなものが考えられます。

A1:ドキドキ型⇒ジェットコースターに乗るスリルのような情動が伴なうもの

A2:ゲラゲラ型⇒お笑いタレント番組のような情動が伴うもの

A3:サラサラ型⇒スポーツ漫画のよう気分がさわやかな情動が伴うもの

A4:ウルウル型⇒悲劇を観て楽しむような涙を流す情動が伴うもの

これらの分類はアリストテレス以来のドラマの分類に似ている面があり、人がどんな感情を持つときにエンジョイしているといえるかを分類するものです。

さらに、次のような能力要因からの分類も可能です。
B1:身体技能型⇒スポーツのようなテクニカルな技術にこだわったもの
B2:知的技能型⇒クイズを解くような知的な能力が試されるようなもの
B3:感情技能型⇒とくに人生の目的といったものはなく情緒や感情的欲求を満たすものB4:交流技能型⇒人とのコミュニケーションでおしゃべり自体を楽しむようなもの

こうしたエンターテイメント要因について、さらに詳細なプロセスを追う内容の分類もあるかもしれません。ここではそうした深入りはせずに、心理的な内容の面でどんな効果があるのかを検討してみましょう。

たとえば、具体的な道具と関連で見た場合には単純な分類では通用しないケースがいくつかあります。パチンコなどが典型的ですが、パチンコというゲーム性はA1B2タイプの組み合わせですが、そこにアニメとして「北斗の拳」が利用された場合はA3タイプが加わることになります。その場合のエンターテイメントの情動は、3つの構成要因が絡んだものとなってきます。

エンターテイメントの心理要因は、このように複数の要因がその道具使用の在り方と関係しあっていると考えられるのです。しかも、時間的な流れの中でみたときには、その要因の中でもどれが主流となるかはプロセスごとに変わってきます。

さらにマーケティング的な視点からは、モノ所有の欲求型からサービスの経験価値型といった区分も重要になるでしょう。モノ所有の欲求が満たされていればエンジョイできた時代は自動車を持って郊外へ休日にドライブするようなことがエンターテイメントとして重視されます。誰もが同じようにモノを持つことをステイタスとみなせた昭和の時代であればそうした所有そのものがエンターテイメントであったのです。

■「エンターテイメント」の心理学:エンターテイメント性の分析法

このように人と時代によって、エンターテイメント性の内容そのものも変わってきますが、他方でそこに共通する感情もあります。その場面ごとの予測をして、顧客サービスの質と量を調整していくエンターテイメントの“心の科学”が求められるのです。ここでユニークな動物園のサービス革新の事例を検討してみましょう。

旭山動物園では動物の生態的な動きやライフスタイルの魅力を来場者に伝えるために、餌をただ与えるような仕方はやめて、もっとリアルな野生の動物の生き生きした姿が行動でわかるようにしました。これを生態的な「行動展示」というのですが、動物本来の姿を色んな場面で工夫をして観客にみせたのです。

これは観客側からすると、とても新鮮であると同時に動物たちの自然な生き様や動きがみられることになり、来場者数が何倍にもなったというのです。では、この場合のエンターテイメント性の心理とは何でしょうか?

一つには、A1型のようなドキドキ型の場面があり、それはリアルな野生の動物のダイナミックな動きが描き出すものかもしれません。それはライオンなど猛獣の場合ですが、それとは違うカワイイ系の動物達はB4型の触れ合いの楽しさのようなことでしょう。このような多様性と動きのユニークさが要因となって、動物園の楽しさを引き出したといえます。

これらの定量的な分析はその動きを現場で動画に撮るなどして、参与観察型の調査(人類学的な手法でもある)で分析していく方法も有効です。ただし、行動の変化を指標にしていく必要があり、その動物特有のアクションをパターンとして分類することが必要でしょう。

 

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リーダーシップの心理(5):任せる勇気編

「役割意識」と成長マインドの関係性

自分が経営管理者として向いていないと思う人は、いつまでたっても管理する仕事への動機付けができません。そのために、管理者研修を同じように受けてみても一方は自分の管理のしかたを振返りながら改善をめざそうとするのに対して、他方はまったく変化を受け入れることもなく現状肯定のままで済ましてしまいます。

その違いの心理的な要因には、ポジティブ心理が働いているというよりも現状維持の”自分はこういうものだ”という役割の固定化があります。逆に言えば、その役割意識を変えられるなら、自分らしさの変化を受け入れて新しい役に自分を近づける努力をするようになります。

当初はその役が演技的なものであるかもしれません。学卒の新人教員は学校という場において、かつて生徒という役を演じていた時から一変して教員という役を演じる必要に迫られます。知識としての教育ノウハウもそれほどないわけですが、それでも生徒との関係では先生として振るまう必要があり、その役にふさわしい行動をします。

行動をしているうちに、それがなじんで教員らしさを身につけ、その結果として教員の成長マインドを獲得していくというプロセスをみることができると考えられるのです。

そこには教育の場が持つ生徒と先生の関係性の文化、仕組みとルールがそれらの基盤ともなっています。その基盤のうえに意識としての役割が成り立ち、その役割意識があることによって、自分らしさも「アイデンティティ」につながっていくとみなせます。

成長マインドはこのようなアイデンティティの発達過程を含むダイナミックな心理なのです。だとすれば、少し背伸びした「役割意識」が何かを理解することは、とても重要な成功モードの要因だとみなせます。それは具体的には自己管理の在り方とも関連しながら、自分を高めていく土台になっていくものです。

また、こうした変化を重視する成長マインドの見方は、弁証法(※ヘーゲル哲学)の考えとも重なります。それによって自己変革がおこり、新たな学びや人間関係が生まれるからかもしれません。

弁証法というのは、肯定的否定(肯定的ネガティビティ)は否定的なものの中に次の肯定的な発展への契機が隠されている、という発展や進化の認識論です。そこには自然な発展性の流れを捉える科学の視点があり、人が変革をする勇気を与えてくれるものです。

目の前にどんな否定的な出来事があっても、そこに可能性としての発展があるとすることで、成長への手がかりが見つかるのです。現実が多様であり、予測が簡単ではないとしても、大きな流れの中では変化し適応すること、それを科学は証明してきているからです。

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リーダーシップの心理(4):任せる勇気編

ポジティブ心理学からみた「成長マインド」の考え方

成長マインドは通常のポジティブ心理学の見方ではこうした限界があるといえますが、それでも全体的な見方は幸福優位の立場が望ましいということです。その根拠は、長期的には人が他者と協力していくうえで成功や失敗を通じて怒りだけではなく、仲間への共感や勝利への確信などポジティブな感情要因が生まれてくることで、変革が維持向上されてくるからです。

そこには感情としてのポジティブ優位性は明らかなものであり、誰もがその感情の中でやる気を高め向上心を持つようになってくるからです。
そもそも向上したいという成長マインドの欲求は、誰かに認めてもらいたいという「承認欲求」と一体となっていると考えられるのです。社会的な向上心は、自己承認的な欲求でもあり、かつ他者承認的な欲求と裏腹でもあるのです。スポーツのような身体技能を競う世界ではそれがオリンピックのようなものほど、自己の成長マインドと社会から認められる承認欲求の両面性が際立ってきます。

こうした見方からすると、成長マインドには怒りという飢えの感情はなく、自分本来のポジティブなものへの欲求をベースにするものだとみえるかもしれません。
ビジネスでは営業など顧客へのサービスを軸にするものなら、承認欲求も高いし成果への達成が自己のインセンティブとして見えるものです。

それゆえ、容易に成長への動機づけができるものです。営業の仕事については人間関係を重視する満足志向は意義のあることでしょう。ですが、内勤的な仕事については顧客という存在は漠然としていますので、このような明確性がなく動機も曖昧となってきます。
そこにビジネスとしての成長マインドをどう創るかという難しさがあります。

もし自分の周りの人達をみても成長を感じ取れるようなら、あなた自身も成長への期待や希望をもてるタイプの人に違いありません。このような感覚をここでは「変革可能感」と呼んでおきます。

自分を取り巻く組織や人、そして自分自身が“変革可能”だという感覚であり、未来志向の実践を促す力といえるものです。
変革可能という実感があるためには、これまで自分が経験してきた変革への行動が何らかの形で成功していること。そして、それが現在から将来にかけて継続できている実感を持てることが必要です。そのベースがあってこそ、自己実現への行動が具体的な形になると考えられるからです。

変革という視点からリーダーシップが問われることになります。マネジメントは複雑性への対応であり、リーダーシップは変革がキーとなるものだからです。
つまり、変革はそこに未来への期待や可能性をみるのであって、そのビジョンが不可欠となりますが、マネジメントは他者を目的へと近づける調整力が要であると考えられるのです。

もちろん、こういう言い方もできます。企業のリーダーシップを考えるとき、その会社の社長の“人間力”がなかったから業績が上がらないのだと。人間性や人の“器”ができておらず、社員達の心をつかむ力やリーダーシップがなかったのだと。

このように、個人的な資質として社長の能力の無さをいうことは容易なわけですが、ビジネス心理学では変革を3つの領域に分類して、その変革プロセスに注目しています。とくに人の仕事においては人の変革を問うために、人の活動をどう変革可能なものにしていくかということが問われるのです。

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リーダーシップの心理(3):任せる勇気編

「逆転型成長マインド」と「現在型成長マインド」

相手に何事かを任せるには、自分が自律し成長している感覚が問われます。現在の自分が将来に向けても成長できるか、そして成長しているという感覚があるか、この2つのことは成長マインドを決めるものです。
そこで、前者は「希望型成長マインド」(HDM)、後者は「現在型成長マインド」(PDM)とここでは称しておきます。

HDMはビジョンとも関わる内容ですので、社会観など多面的な要因がかかわってきます。他方のPDMでは自己自身の行動レベルでの成功や失敗の経験の評価が関わってくると考えられます。小さな成功が続いていれば成長を実感することになるし、失敗続きであればそうはならないからですが、そこに自己の挑戦度がどれほどかという評価感が関係してくるので注意が必要です。

もし、挑戦度が高いことで失敗を繰り返していても、自己評価は低くならないと考えられ、場合によっては失敗自体を成長の機会ともみることになるのです。
このような否定的経験を乗り越えての肯定的な自己評価こそ「レジリエンス力」のコアになるものだといえるでしょう。私はこれを「逆転型成長マインド」と呼んでおきたいと思います。失敗を逆転させる挑戦心を持つものですが、それは根性や意思力のテーマとも関連するレジリエンス本来の内容です。

レジリエンス概念は抵抗や克服といった反転的な事象を客観的に表す概念ですが、成長マインドの概念はより主観と感情要素が入った心の状態を意味するものです。
科学的な表現としては、いずれも認知、感情、行動要素のそれぞれのバランスも考慮した心的傾向を示す指標が必要となります。成長マインドという概念をレジリエンスに導入することで、より感情要素の実感をベースに当人がそれをどう受容し習得していくか、キャリア発達の中で問題にできるのではないかということが私の問題意識にあるのです。

さらに成長マインドの概念は、キャリアをどう発達的で学習可能なものにしていくかを主体側に即して考えることがしやすくなります。レジリエンスの概念では、どうしても外部からの圧力的なものや対抗する対象が前提で受身的な形になってしまうのです。元来の意味が“抵抗”ですので、それは他者的な存在を敵とみる見方となっているからです。そこには主体としての成長するうえで不可欠な“協力”や“共感”といったポジティブな対象を主体側にすえる発想が抜けているのです。

成長マインドは自己本来の在り方をマインドフルネスの視点も取り入れながら発展させることができます。マインフルな主体側の在り方とは何かと問えば、私は次のように定義しておきたいと思います。

「成功や失敗を主体的受容(ありのままの受け入れ)しながら、未来においては善となることを信じる心の在り様のこと」

人は未来を考えずに入られませんが、どうなるかは予測ができてもそのビジョンへの確信はもてません。ですが、未来をどう評価するかは自分が選択できるものです。
つまり、未来を評価する側の自己の在り様にこそ成長マインドのコアな役割があるのです。

未来がいつまでも不安の対象でしかないのかは、当人の成長マインドに左右されるものです。成長マインドが逆転型であるなら未来は挑戦と希望の対象であり、現在型であるならば過去の経験に依存する不安なものになってくるのです。どちらを選択するかは自己自身の問題であり、自己がどういう学び方をし、そこに新たな何をみるかにかかってくるのではないでしょうか。

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リーダーシップの心理(2):任せる勇気編

成長マインドの新しい次元としての「任せる勇気」

「任せる勇気」は人の成長欲求を向上させる力となり、その「成長マインド」を切り開くものです。理由は次の3つ。
1:自己意識の低い次元から他者信頼を入れた他者の成長マインドを考慮できる
2:チームや組織のシステム全体の効果によって自己の弱みを強みにする
3:役割意識を与える効果によって他者は役割に応じた成長の機会を持つ

自己という枠を越えて相手の成長をねがう気持ちは貢献意識にもつながるもので、その結果として幸福感が継続することにもなります。また、チームなど組織的な場においては、メンバー間の役割を適切なものにするよう配慮するようになります。

つまり、任せる勇気があることが結局のところ自分と他者の間の壁を乗り越えていく機会と場を多く産み出していくわけです。あなたがもし相手がこんなことはできないと思っている限りは、相手もあなたに対して信頼をさほどおきません。信頼とは相互作用の産物でもあるからです。
そうした相互作用の事例をあげてみましょう。

私がコンサル会社で上司と仕事をしていたときのことです。上司はクライアントの問題解決をする役割を部下と役割分担していくことが重要なのですが、その上司は自分の背中をみて学ばせるという以上に「見せ場は自分がやりたがる」という特徴がありました。どういうことかといえば、クライアント先でどうやって自分を高くみせるかという、過大な「自己呈示」(※自分をよくみせようとする心理)の傾向があったのです。

たとえば、カードを使った問題解決技法で現場にある不満や問題性を洗い出し整理していく手法はKJ法といわれるものです。これは私が専門であり、その発明者であった川喜田次郎氏の会社のNO2であった方とわざわざ(株)認知科学研究所というコンサル会社まで創設しました。そのことは上司も知っていることですが、部下を活かすより、自分がKJ法を使って問題解決するような場面にこだわったのでした。

私が上司なら、そのKJ法を使う場面でこそ部下の強みを活かし、自分はそこで解決策としての案を別の視点からコメントするなどして議論を盛り上げるよう配慮するでしょう。そうすることで、目的であるはずの解決そのものが内容的にもしっかりしたものになるからです。

ここには上司と部下の関係の作り方が、いかに上司側の「任せる勇気」によって変わってくるか、その重要かが現れています。上司は部下のことをどうしても自分の手段とみてしまいがちです。実際にはその部下のほうが知見がある場合、それを上司側が認めるには勇気が必要になります。その勇気の心理には相手と比較される自分の劣等感が伴ってしまうからです。

私たちは他者と比較する自分が常にいることを知っています。その自分の姿はイメージとして有能か無能かを形造り、優越感とその裏返しとしての劣等感を持っています。少し自分が優れていると思えると勇気も出しやすくなることが予想できますが、そのレベルがどこまでかは人によってかなり差があるといえます。とくに私たち日本人には、少しの劣等感のレベルでも勇気がくじかれる人も多いのではないか。このように予想できるのです。

先の例の私の上司にしても普段は人のよい話好きの方であったわけですが、なぜか仕事の場では自分のほうが上であることを周囲に示さないと気がすまなかったのです。残念なことに自己の有能さが何かを当人は本当には理解できず、部下と自分の狭い比較だけの枠組みにとらわれてしまったといえます。

私たちのコンサル業界では、それぞれが自分の得意技を持ち、その場にふさわしい形で協働していくことが必要です。形式的なチーム制に限らず、ゆるやかなプロジェクトの場合などはとくにこの役割の認識が、そのプロジェクト全体の動きを左右してしまうからです。

リーダーシップの問題とも関連してきますが、誰がその場におけるリーダーであるのか。また、そのリーダーとフォロワーの関係はどの段階で変更させるべきかなどが「任せる勇気」に関係する課題となっているのです。

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リーダーシップの心理(1):任せる勇気編

(1)「任せる勇気」を削ぐ「失敗への不安」と「責任回避」

任せる勇気と失敗への不安はコインの裏表の関係にあります。任せた後やっぱり不安になって自分が事実上それをやってしまったり、やたらと口を挟んで当人をコントロールしようとすることなどやりがちではないでしょうか。

母親と子ども、上司と部下、先生と生徒、こうした上下関係のある社会的な活動においては失敗の責任を誰がとるかなど、「責任回避」という問題と関係してきます。上が責任をとれないなら部下に頼むことも避けなくてはならない場面もあるからです。

そうした責任を誰がどうとるかはドラッカーのマネジメント理論においても重要されていることです。ドラッカーはマネジメントにおける「責任」を、組織変革していく力とみなし、マネジメントする側がもっとも自覚すべきものとして問いかけます。

ドラッカーの論理はマネジメントが個人の能力や成長への見方を超えて、組織という単位で物事を考える視点を与えてくれます。これはマネジメント論と学習・発達論が不可分な関係としてみなす必要を問うものです。

ドラッカーのいうマネジメントは管理という以上に、組織の成長と個人の成長を対立から協働へ導く論理を持つ点に特徴があります。組織が変わるべき内容がマネジメントの役割と重なり、その役割を遂行するプロセスにおいて個々のメンバーがどう自己管理を達成し、組織に貢献していけるかを問うものだからです。

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(その9)不正の心理とは

■不正の心理(5)/犯罪を抑止する「プライムプルーフ」の仕組みとは?

左記の3つの犯罪者の分析から、犯罪を事前に防いだり、再発をさせない抑制法を検討しましょう。 この基本的な視点は、環境や仕組みの工夫による「プライムプループ」にあるといえます。

例えば、百貨店の洋服売り場で何も監視の仕組みがなく、レジも離れていれば、つい万引きをする人も多くなります。ですが、監視カメラやスタッフの適切な配置があればそのような万引きへの「誘引」がずっと減るはずです。

さらにニューヨーク市の地下鉄での暴力犯罪を激減させた例では、集中的に壁をきれいにする住民運動の取り組みがあります。

これは、バタフライ効果のように犯罪の根源であった汚い地下鉄の環境を「壁」をきれいにするということから、その相乗効果として犯罪者のたむろしていた場を転換した効果によるものでした。これは、最初から原因がわかって開始されたというより試行錯誤の中で発見した犯罪の場を変える「小さな一撃」の大きな効果だったといえるでしょう。

■不正の心理(6)/犯罪のプロに至る「発達段階」と仲間の「準拠集団」を断て!

前述の環境の面からとは別に、犯罪の「発達段階」から防止を検討してましょう。初犯から徐々に確信的なプロセス犯罪へという流れを考えると次の段階がみられます。

①初犯の偶発的な「誘引」による犯行
②意図的な犯しやすい場の「選択」
③計画的な破壊行為など伴う場の「形式」

つまり、初期は「出来心」でも、それで「成功」すると社会(親)への反発心が満たされ、自己の「有能感」を持つ。それが次に意図的な選択的犯行を促すことになり、仲間集団とも協力する形で破壊的な「形式」段階に至る。

このような犯罪の悪循環を立ち切るには、本人と同時に「準拠集団」との関係を変えることも必要になります。この集団は自己の行動を受け入れる仲間のこと。犯行を重ねるリーダがいたりすると、その行動がメンバー全体に伝播することになるため、その接点を立ち切ることが優先事項となります。

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(その8)不正の心理とは

■不正の心理(3)/犯罪数は社会的な富の発展と個人の力との差で産まれる?

世の中、「勝ち組み」というコトバが流行していますが、多少の不正は犯しても「勝ち組み」になれさえすれば─と思う人も多いようです。こういう個人の欲求とそれを実現する手段とがギャップのある状態を問題にしたのが「アノミー理論」です。

これはE・デュルケムという社会学者が提唱したもので、犯罪の動機となる原因を社会の価値との関係から説明するのです。「勝ち組み」になるという欲求は社会の価値として認められているものです。ただそれをどう実現するかという「手段」は不正を犯してもよいわけではありません。あえて「目的が正しいなら、手段は何でも」と考え実行するところに犯罪の原因があるとみるのが「アノミー理論」なのです。

この理論の心理的な意義は、犯罪者の個人的欲求を個人内に限定せず、社会成長とのギャップをみる視点です。一部の富裕層が拡大することで、犯罪への動機は高まるとみるわけですが、社会の進化とともに生まれる価値・欲望を実現する「手段」にはどうしても限界がありますが、それを心理面からサポートする仕組みも求められているといえるでしょう。

■不正の心理(4)/犯人像のイメージを当人の記憶が創りだす危険とは?

身近なところで犯罪が起きると、その相手が今まで普通にあいさつしていたような行動でさえ「ちょっと暗い顔をしていた」など犯罪者らしいものとしてみるようになります。

そして、子ども時代に一度でも万引きなどしていれば、そういう犯罪をする性格があったものと類推するわけです。つまり、結果が原因らしきものを、都合よく集めてくれる点が「選択的確証」の特徴といえます。調査では、万引きをしたことのない子どもの方が少ないほどなのに、それを犯罪の要因として結びつけることで、確信を強めていきます。

とくに「犯罪者=特別な人」と思いたい傾向があることから、犯罪者の「ステレオタイプ」に合った特徴づけを探し、犯罪のプロファイルを追加していくことになるわけです。

これは「目撃緒言の信憑性」の問題もあり、犯人らしき人の写真を見たという“手順”が、その当人に犯人像を記憶として新しく創り出してまうのです。それは最近の認知的な研究でも実証されてきていることですが、記憶の不確かさといった程度ではなく、犯人でない写真を見た経験が、後からその見た写真を正当化するような結果になるといえます。

 

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