自己意識(2):「私的自己意識」VS「公的自己意識」

自己を意識する場合に二つのタイプがあります。一つは「私的自己意識」であり、自分の内面側に関心を向けて、失敗や成功の要因を常に自分の態度や行動の面から見直したりするタイプです。自分の独自の個性や考えを大事にし、他者がどう思うかよりも自分の在り方や価値観を優先していきます。その点では哲学や心理学を学ぼうとするような人はこのタイプといえます。

他方で「公的自己意識」が高いという場合は、外部の人が自分をどうみるかを気にし、社会と自分のつながりを優先しようとします。世間がどう思うかという日本人的な意識もこのタイプになってきますが、必ずしも他者に依存しているわけではありません。共感を大事にしていく面があり、スポーツ観戦と選手の一体感を生み出すような働きをするからです。

私的か公的かは同じ人物であっても、場面によって選択的にそれを選んでいることがあります。たとえば、サッカーのワールドカップで会社仲間と一緒に日本チームを応援しているときは公的自己意識が強くなっても、仕事では互いがプロとして批判的であり、お互いが競い合うような営業をしているといったことがあるのです。

つまり、私的か公的かはどんな活動のスタイルを選んでいるのか、その場の活動の目的によって変わってくるという認識が決め手になってくるということなのです。ただし、ここで注意が必要なのは、鏡を自分の前に置いたりして自分の姿がすぐ視えるようにしておくと私的自己意識が高まるということがわかっていることです。

自分の行動や姿を見える化するわけですが、すると通常のとき以上に自分の立ち振る舞いに対して他者の視点から客観的にみるような傾向が高くなるのです。これは公的自己意識が働くという点では私的自己の否定のように視えます。ですが、他者の視点というよりも自分の客観的な姿をながめる自己がそこにいるということから、公的自己意識の第三者的な「THEY意識」(※佐伯胖)の側面を強調するものだといえます。

それに対して、サッカーチームを応援する場での公的意識は共感をベースにしている点から、「WE意識」(※佐伯胖)が前面にあるということです。WE意識には互いの共感が軸になり、絆を強めるようなことが幸福感情を高める効果があります。それによってアドラーのいう「共同体感覚」も高くなり、望ましい人間関係を創るうえではプラスとなるという効果があります。

 

自己意識(1):自己の「認知的制約」

認知心理学では認識の限界を表す「認知的制約」(cognitive constraint)という問題を多くの実証実験で検証してきました。これはどのような記憶・思考・感情であっても、その場の持つ物理的な“状況性”とどんな時間の流れの中で変化してきたかという“歴史性”、そして多様な価値観が含まれる“文化性”によって制約されてしまうという面を強調しているのです。こうした制約の3つの特性は具体的な認知プロセスとして分析する必要がありますが、ここでは“制約”という意味をもう少し具体的に理解しておくことが重要です。

キャリア教育でも人生の選択が問われますが、この場合に選択する行為がどこまで「自由意志」によるものかは心理学だけでなく哲学の問題ともなります。たとえば、自分で〇〇銀行に就職先を決めたとする場合、それは自分の意志で自由に決めたように思われます。

ところが、その決定のプロセスを辿っていくと、希望する銀行の選択が大学卒であるだけではなく、学部や大学偏差値のある一定レベルでないと受からないような“基準”が就職活動の中でわかってきたりします。自分が所属する大学がすでに面接など受ける手前で、当人の能力で評価される前に何らかの暗黙のカベで仕切られてしまっているというわけです。

こうした社会的な慣習や文化の中にある暗黙のカベを知ってくるのです。つまり、自己のキャリアの選択はすでに文化的要因により、経営学部のある偏差値〇〇以上のような条件が課されているといえます。ある意味では「常識」それ自体が認知的制約になっているのです。

哲学がテーマとしている「自由意志」の説では、人の道徳や倫理の価値基準などの選択は当人が判断する自由意志によって決められるとします。ところが、“自由”という無限定な“意志”は心理学からすると社会関係や文化などから制約を受けており、そうせざるを得ないような慣習や常識などの心理要因が全体として絡んでいるものとみなします。

ドイツの哲学者カントが述べたことでも知られるように、自由意志は社会的な活動のプロセスにおいて“制限”されているのです。それをどこまで意識的に気づくかは学びの質と量によって変わってくるといえるでしょう。