自己意識(5):“日常”を知る認知心理学の意義

 私たちは日常の中で行動し思考し感じたりしていますが、この心の動きは常に一体となる”状況”に埋め込まれたものだといえます。この考え方は2000年以降の認知心理学が状況心理学として説いてきた内容です。ただし、同じ状況心理学の中でも3つに大きく分かれた学問分野が生まれてきています。

1:状況を現象学的な視点で再構成されるものとみなす現象学的アプローチ
2:状況をモノとの生態学的な相互作用とみなす生態学的アプローチ
3:状況をコミュニケーションの言語分析を主とするナラティブ(談話)的アプローチ

1はガーフィンケルらの社会構成主義ともいわれる立場であり、2は認知科学の正統派ともいえるD・ノーマン、3はJ・ブルーナー以降のストーリの認知プロセスに注目する立場だといえるでしょう。

こうした3つの立場は相互に補完し合えるものと考えるわけですが、必ずしも学会などで相互理解が進んできたとはいえません。それは基盤とする学問の原理・方法論が異なるという理由もありますが、何を解決しようとしているかという目的の違いも関係しています。

私の立場はその目的に応じて3つを使いわけており、相互の関連性を把握していく方向を重視しています。そうすることによって、むしろ現実を分析するうえでも、より高いメタ認知や解決の選択肢を豊かに活かすことができるからです。

とりわけ、このコロナ禍の時代になってから”目的”としてきているのは、日常の変化をどう理解し、自己や組織の変革につなげるのかです。その視点からみたときに有効な心理学の方法論とは何かということでしょう。

自己意識(3):「ドラマの感覚」からつかむ自己理解

  「SUIT」という海外ドラマのシリーズはビジネスの中でいかに心理学を学ぶかというテーマに最適な教材としてお勧めです。このドラマではビジネスを人の善意と悪意の狭間の中で、また人生の葛藤の中で”自己概念”(アイデンティティ)をどう獲得していくかを教えてくれます。

主人公は天才的な記憶力を活かして弁護士のコンサル会社に勤めている若者。彼には直接の上司と恋人しか知らない秘密があり、それを知られると弁護士資格が剥奪される以上に刑務所にいく結果になるという設定。ハーバード大学卒だけが一人前とみなされる所属コンサル会社では、その嘘がいつ公の下にさらされるか気が気でない毎日という状況です。そんな仕事の中で上司の背中をみながらプロとは何か、超一流とは何か、正義とは何か、法とは何か、など重要な価値観を学んでいく姿に共感するわけです。

このドラマには秀でた能力の持ち主が陥る仕事上の落し穴や他者と協力していく難しさ、信頼性の意味など多面的な人間の在り方を考えさせるテーマ性があります。そのような「ドラマの感覚」こそ、すでに80年代に認知心理学者ジェローム・ブルーナの「ナラティブ理論」で強調したものです。

「ドラマの感覚」(Sense of drama)は葛藤や矛盾がキーとなるものですが、そこに矛盾を乗り越えていく次のステップへの鍵もあることに注目しておきたいところです。このステップは必然的な場を生み出し、飛躍的な成長や発達をもたらすものだからです。

私たちが生きる世界は矛盾と葛藤に満ちています。それを個人として解決しようとしても限界があります。その限界を超えて成功していくためには個人ではなく、他者との協力や組織といった武器が必要となってきます。そこにこそ当人の”人間性”と”知性”の統合が問われる生の人間行動のおもしろさやおかしさが現れてきます。

ただし、”人間性”といったものは見方によって様々ですが、だからといって漠然としているものではなく、その”問い”を探すのがこのドラマの面白さでもあるともいえます。

また、このドラマでは自分が視た”映画”のキャラクターの”語り”をジョークで使う場面が多くありますが、これがユニークなのは真似をする場面が頻繁に出てくるのです。そこにあるこだわりが、そのドラマの監督らしいところともいえます。

ふざけているようにも一見みえるのですが、は「ナラティブ理論」からすると非常に重要なコミュニケーションや学びとも考えられます。とくに”理念”などの価値観を習得していくうえでは、これは不可欠なドラマの感覚を含んだ即興演劇の「インプロ」に近い効果を持つものだからです。

 ビジネスを成功させるものは「問い」の質ではないか、そんな想いをさせてくれるのがこのドラマです。シーズン2の後半で上司の信頼を失い途方に暮れる場面が続きますが、そこには自分がどういう選択をすべきか、その選択の基準を間違うときが”問い”を間違えるときでもあるのです。

私たちの日常は人の信頼に上に成り立つものですが、以外に相手を分かったつもりでいたりします。そのため、良かれと思い相手のためにした行動であったものが、後になってから逆に相手を傷つける原因になってしまいます。このドラマでは、そうした人間関係のズレとなる場面が至るところに出てきます。それが当初は小さな悪戯や相手のためを想っての隠しごとであったりするような“善意”でやってしまいます。そこがドラマの感覚を呼び起こす“矛盾”なのですが、その善意の結果がどうなるか予測がつかないために当人はその影響を見過ごしてしまいます。ここが間違った行動につながる”地雷”でもあるわけですが、一度その地雷を踏んでしまうと取り返すのはとても困難なのです。

そうした人生の困難を乗り越えていくにはどうするのか、そうした問いを常に視聴する側に投げかけながら、ドラマはドラスティックに展開していくというわけです。

自己意識(2):「私的自己意識」VS「公的自己意識」

自己を意識する場合に二つのタイプがあります。一つは「私的自己意識」であり、自分の内面側に関心を向けて、失敗や成功の要因を常に自分の態度や行動の面から見直したりするタイプです。自分の独自の個性や考えを大事にし、他者がどう思うかよりも自分の在り方や価値観を優先していきます。その点では哲学や心理学を学ぼうとするような人はこのタイプといえます。

他方で「公的自己意識」が高いという場合は、外部の人が自分をどうみるかを気にし、社会と自分のつながりを優先しようとします。世間がどう思うかという日本人的な意識もこのタイプになってきますが、必ずしも他者に依存しているわけではありません。共感を大事にしていく面があり、スポーツ観戦と選手の一体感を生み出すような働きをするからです。

私的か公的かは同じ人物であっても、場面によって選択的にそれを選んでいることがあります。たとえば、サッカーのワールドカップで会社仲間と一緒に日本チームを応援しているときは公的自己意識が強くなっても、仕事では互いがプロとして批判的であり、お互いが競い合うような営業をしているといったことがあるのです。

つまり、私的か公的かはどんな活動のスタイルを選んでいるのか、その場の活動の目的によって変わってくるという認識が決め手になってくるということなのです。ただし、ここで注意が必要なのは、鏡を自分の前に置いたりして自分の姿がすぐ視えるようにしておくと私的自己意識が高まるということがわかっていることです。

自分の行動や姿を見える化するわけですが、すると通常のとき以上に自分の立ち振る舞いに対して他者の視点から客観的にみるような傾向が高くなるのです。これは公的自己意識が働くという点では私的自己の否定のように視えます。ですが、他者の視点というよりも自分の客観的な姿をながめる自己がそこにいるということから、公的自己意識の第三者的な「THEY意識」(※佐伯胖)の側面を強調するものだといえます。

それに対して、サッカーチームを応援する場での公的意識は共感をベースにしている点から、「WE意識」(※佐伯胖)が前面にあるということです。WE意識には互いの共感が軸になり、絆を強めるようなことが幸福感情を高める効果があります。それによってアドラーのいう「共同体感覚」も高くなり、望ましい人間関係を創るうえではプラスとなるという効果があります。

 

自己意識(1):自己の「認知的制約」

認知心理学では認識の限界を表す「認知的制約」(cognitive constraint)という問題を多くの実証実験で検証してきました。これはどのような記憶・思考・感情であっても、その場の持つ物理的な“状況性”とどんな時間の流れの中で変化してきたかという“歴史性”、そして多様な価値観が含まれる“文化性”によって制約されてしまうという面を強調しているのです。こうした制約の3つの特性は具体的な認知プロセスとして分析する必要がありますが、ここでは“制約”という意味をもう少し具体的に理解しておくことが重要です。

キャリア教育でも人生の選択が問われますが、この場合に選択する行為がどこまで「自由意志」によるものかは心理学だけでなく哲学の問題ともなります。たとえば、自分で〇〇銀行に就職先を決めたとする場合、それは自分の意志で自由に決めたように思われます。

ところが、その決定のプロセスを辿っていくと、希望する銀行の選択が大学卒であるだけではなく、学部や大学偏差値のある一定レベルでないと受からないような“基準”が就職活動の中でわかってきたりします。自分が所属する大学がすでに面接など受ける手前で、当人の能力で評価される前に何らかの暗黙のカベで仕切られてしまっているというわけです。

こうした社会的な慣習や文化の中にある暗黙のカベを知ってくるのです。つまり、自己のキャリアの選択はすでに文化的要因により、経営学部のある偏差値〇〇以上のような条件が課されているといえます。ある意味では「常識」それ自体が認知的制約になっているのです。

哲学がテーマとしている「自由意志」の説では、人の道徳や倫理の価値基準などの選択は当人が判断する自由意志によって決められるとします。ところが、“自由”という無限定な“意志”は心理学からすると社会関係や文化などから制約を受けており、そうせざるを得ないような慣習や常識などの心理要因が全体として絡んでいるものとみなします。

ドイツの哲学者カントが述べたことでも知られるように、自由意志は社会的な活動のプロセスにおいて“制限”されているのです。それをどこまで意識的に気づくかは学びの質と量によって変わってくるといえるでしょう。