匠英一のソーシャル・メディア論(その7)

初音ミクが創り出す協働創作の革新(1)/ CoCM(Co-creative Media)

初音ミクはキャラクターとしての面と、歌声合成システムとしての「VOKALOID」の二つの面があり、「育てるゲーム」に近い感情経験をユーザに与えてくれます。

リアルの世界で、この方法で大成功しているのがAKB48です。

しかし、AKB48には初音ミクのように2次創作から3次、4次といった協働創作の仕組みはありません。それはデジタルであればこそできる話だからですが、私はこのような協働創作の在り方をCoCM(Co-creative Media)と呼んでいます。それに近い見方は2005年頃からマーケティングの用語としても「CGM」(Consumer Generated Media)と称していました。

これは消費者がWEBなどのメディアを通じた口コミの仕組みを意味していました。正確にいえば、それは口コミ情報を消費者がブログやSNSを通じて創り出していく、その情報収集と活用の仕組みとして注目されたものです。

情報を消費者が創り出す動画や音楽のコンテンツは、Youtubeやニコニコ動画の場で共有されて拡大してきたものです。その中でも「初音ミク」は特別な創作物であり、これまでの共有のレベルを越えるものでした。

とくにYoutubeと異なりニコニコ動画の動画共有の体験は、そこにリアルタイムに近いようなコメント共有による同じ場を共に共有しているような体験があります。ニコニコ動画のユーザは画面に流れる他のメッセージをみながら視聴しているのです。あたかも映画体験の場で直接文字を書き込むことで、誰もが後でその書き込みした時間をたどれ、そのコトバの臨場感を感じることを通じて一緒にいる感覚が生まれるからです。

これは現在、テレビでも同じようにツイッターのコメントをオンエアしながら見せる場面もあり、目新しいものではなくなってきていますが、初音ミクの協働創作の在り方はもっとダイナミックなものです。

初音ミクが創り出す協働創作の革新(2)/「N次創作」の意義

この点について、「N次創作」という視点から濱野智史氏は、初音ミクから派生する創作の特徴を次のように整理して述べています。

  • 初音ミクと人間が歌ったものをステレオ音声の左/右チャネルで比較する「比較してみた」作品。
  • 複数の「歌ってみた」作品を合成することで、仮想の「合唱」を制作する作品。
  • 「歌ってみた」と「演奏してみた」を合成することで、仮想の「バンド演奏」を制作する作品。
  • 初音ミク関連の絵移動作品を集めて、独自の集計基準(再生数・コメント数・マイリスト追加数)に基づいて作成された「ランキング番組」。
  • ニコニコ動画上で好評な楽曲をメドレーにして、アレンジを加えた「組曲」と呼ばれる作品。
  • 作品中に登場するキャラクタたちをオールスター的に集めて制作される「MADムービー」。

(引用:月刊「情報処理」pp490~491,Vol.53 No.5 May2012より)

初音ミクが創り出す協働創作の革新(3)/共感のマーケティング革新へ

Youtube上の多くのコンテンツは、ユーザはコンテンツを共有視聴はしても、それを2次、3次と創作しながら、派生作品を創り共有することはありません。初音ミクの流行についていえば、そのオリジナルの利用許諾権をフリーに近い形で制限して実質的にはオープンにしたことに原因があります。ニコニコ動画はまさにそれを促進する仕組みとして、「タグ(Tag)」の数を10個までに制限する方法によって実現したのです。

すでに初音ミクは単なるソフトではなく、多様なクリエータが自己の強みの部分で創作ができるプラットフォームになっています。イラストで好きな絵にしたり、3Dやアニメにデザインするなど多様な「創作の連鎖」を創り出す媒体になったといえます。

要約すれば、初音ミクの協働創作の仕組みは、あたかも「連歌」と同じように、ひとつの原作の歌から次々と編集追記されて新たな作品となって生まれてくるサイクルができていること。そして、それを口コミで共感する仕掛けがマーケティングの革新を生んだと云えるでしょう。

匠英一のソーシャル・メディア論(その6)

<モノの消費から「演劇的消費」への発展に向けて>

モノによって得られる“コト”へと消費はシフト

現在の消費行動がどう変わってきているかということについて、商品というモノ自体の消費ではなく、商品を通じて得られる経験、つまり“コト”へと消費へと移ってきていることは明らかです。

それはディズニーランド的な消費の場が盛況であることからもわかることですが、そこに高付加価値という言い方では説明できない心理のマーケティング発想が必要となっている理由があります。

第一には、消費者が得られる情報・モノがどれだけ量的に多いかよりも、質的に自分にあっているかがより重要視されるようになってきました。

自分らしさを演出できるようなモノにはこだわらず財布の紐を開くのですが、そうでないモノは逆に値引きと低消費の渦に巻き込まれてしまうのです。

高付加価値の内容が、その意味では自分化であり、自分ブランド化であるわけです。そのための交流の場が必要とされるようになり、ネット上でのコミュニティが盛況になってきました。フェイスブックはその要求にマッチしたわけですが、それはビジネス全体の流れからすると必然ともいうべきプラットフォームであったのです。

そして、情報交流の内容は相互の経験談や日常の会話に近いものであったわけです。

しかし、その中でとくに注目すべき動きがあります。

それがキャラクターを活用するコミュニケーションです。従来の企業が日本ハムの「ハム係長」のようなキャラクターを使って直接個人のユーザと会話するような場はありませんでした。それは企業側としても実験であり、日本ハムの法人としては特別な扱いでそれを許可したともいえます。

「演劇的消費」の意味するもの

このような消費行動の変化からいえることは、モノ自体よりもモノの背景にある物語を消費するという意味が、よりダイナミックな相互の対話的な場や演劇的な場に置き換わってきていることです。

そこにあるのは、これまでのおもしろいストーリの中に商品を置いて宣伝するといった「物語的消費」ではなくなってきています。なぜなら、そこには「楽しい」「共感」という感情の要素と同時に、“仮想”であってもリアリティのある世界が広がってきているからです。その典型としては、スマホを使って位置情報からお店で宝探しをしながらポイントをもらうというようなフォースクウェアの事例などがあります。

それはセカンドライフで言われていたような仮想世界の話ではなく、もっと現実の場に即した「ゲーミフィキケーション」をベースにするような、ネットからリアルへの連続的な場であり、そこでの「経験価値」が問われるものだといえます。

「経験価値」というキーワードはB・シュミットが、感情と思考のレベルを6つに分類して、その中でどんなマーケティング施策が顧客に最適かを示すものでした。しかし、その方法にはまだリアリティの点では不順分なネット経験しか与えられなかったため、さほど魅力的なサービス企画につなげることができませんでした。

いわば、具体性のある仕組みや道具立てがそろわないため、まだ理念や方法論が先行していた形だったわけです。

ところが、ここ5年間ほどでのソーシャルメディアとスマホ等の発達は、いつでもどこでもリアルな演劇的消費を促進できる環境を提供するようになりました。その結果として、消費者の在り方も受け身の消費を行う対象ではなく、開発や市場創りを担っていく参画型(CGM)の「消費=生産」へと変わってきています。

「演劇的消費」の意義

演劇は様々な立体的な道具を一つの場に集約させて全体を一貫したストーリに位置付け構成されているものです。そこには人の感動を多様な道具の網目の中で創造していくという立体的なデザイン性があるといえます。

つまり、「演劇的消費」とは人の感動を立体的にデザインしていく新しい消費モデルのメタファー(比喩)なのです。

一方で問題点としては、この演劇型というメタファーでは、BtoC型の個人客向けのようなイメージが強くなります。BtoB型の法人客向けのビジネスにおいて、それが意味するものが何かを明確にしておく必要があります。

そこで、BtoBの市場においての応用を考えるうえでのポイントを示しておきましょう。

  1. 法人客であってもそこに感情的要素が入ってくることに変わりはなく、とくに信頼性や合理的な選択プロセスの統合が求められる。
  2. 自社との付き合いが複数の人間関係をベースにしながら意思決定をすること。
  3. 取引に要する期間や準備のステップが大きく複雑となること。

これらの要件は、個人客には当てはまらない独自の法人客に関する課題です。それをネットの道具立てだけで解決できるものではありません。

法人客に対するネットとリアルの関係性が、ここでも問われるようになってきているからです。

「O2O」のネット戦略へ

こうしたネットとリアルの関係の問題については、戦略的な「O2O」(Online to Offline)が重要視されてきています。これは「クリック・アンド・モルタル」というコトバで従来は言われた課題でしたが、それとどこが異なるのかを明確にしておくと次のようなことです。

  1. ネット情報からリアル店舗への誘導が基本であって、その逆のプロセスは対象とされていなかった。
  2. そのネットやリアル店舗というのも、それぞれが単体であって複数のものではなかった。
  3. リアルとの統合は情報という単位であって、そこにプロセスとしての「経験価値」をデザインするという統合の発想はなかった。
  4. これまではBtoCの消費者モデルであって、BtoBの法人客のリアルとの連携は問題にされていなかった。

すなわち、O2Oでは消費のプロセスについて経験価値を創る視点から統合し、複数の送り手と受け手がダイナミックに交流していくものなのです。

そこではこれまで以上に、自己やブランドといった「こだわり」と「らしさ」が問われるようになってきます。

そこにこそ、「演劇的消費」の意義があり、今後のeマーケティングを発展させていくテーマが存在するといえるでしょう。

匠英一のソーシャル・メディア論(その5)

<「顧客見える化」から動画活用の問題を探る>

「顧客見える化」から動画活用の問題を探る(1):失敗事例より

顧客コミュニティの戦略を理解するうえで、重要なことは顧客自体の根本の認識の仕方です。ここソニーのWEB動画利用のBRAVIA事例(下記図)では、1分間の対談式の解説が毎日シーリーズとして行われたものがあります。ここではユーモラスな場面を演出し、内容上の解説としては1人で十分でありコントとして見る人には向いているかもしれません。ただ、1分で語る中身が商品解説である以上、それを知りたい人には雑音の多い演出過多となっているようにも思えます。

テーマ自体がスマートフォンの映像に関する事なので、スマホで動画を楽しんでもらう意図があってのものですが、「いいね」の数量などみても30~50人程であり評価が低いことがわかります。

これは失敗事例になるわけですが、その原因は何でしょうか?
この点について「顧客見える化」の視点から検討してみましょう。

ソニー:「BRAVIA」の動画解説より

*ソニー:「BRAVIA」の動画解説より

(出典:http://www.sony.jp/bravia/special/index.html?

s_pid=link_tatsujin_201203_braviatopbnr

「顧客見える化」から動画活用の問題を探る(2):ストーリーの“短編化”の効果から

「ストーリー・マーケティング」については、ここでは物語的な要素をあらゆるマーケティング領域に応用していくことと定義しておきたいと思います。物語といっても演劇的なものや小説的なものまで幅広くあります。そこで、ある程度、長編か短編かを分けておくことが必要でしょう。

そうしたことから、ストーリーの「短編化」をするメリットを整理しておくと次のようになります。

  1. 各小項目の知識をステップ式に徐々にマスターできる。
  2. 基礎から応用への難易度を分割することで、心理的な負担を軽減できる。
  3. 制作コンテンツの視聴者側の評価をチェックしながら、適切なレベル調整ができる。

この3つの特徴からソニーの動画例を検討してみると、上記3については、この種の動画コンテンツが制作側でかなり事前の計画により構成されたものであるため、制作途中でその評価を組み込んでいく形はとれないでしょう。

すると1、2がそのメリットとなります。 1は冗長な解説のコント部分を除けば、学習的効果を作っている点は問題はないかもしれません。そして、2もねらいどおりユーモラスなコントで飽きさせない心理的な工夫をしているようです。

こうみると問題はなさそうです。ところが、全体として視聴してみると、何か訴求する点にリアリティがありません。そこがこの種の“よく計画”された動画解説の難しいところです。

演劇仕立てのように見ることができるのですが、途中でドラマと無関係な外人の老人が登場したり、コメンターが無言で司会者の質問を無視するなどの場面があります。それでは多数の視聴者の共感は得られないでしょう。

つまり、制作側はあれこれと演出を考えて構成上のおもしろさを追求はしているものの、見事に自己満足に終わってしまっています。ちょうと欧州の思想映画を観ているような、一般の人にはわかりにくい芸術作品のようなものです。

このような作品に仕上がった背景には、ソニーが制作を委託した会社が従来型TVのCM制作会社であるためもと思われます。確かにCMとしてみるなら普通の映像作品と受け止められるからです。

すなわち、根本問題なのは演出の仕方というよりも、制作側で顧客の“見える化”ができていないことです。TVではなくスマホを利用する側のユーザが、この動画を観るのはどういう動機や状況であるか、を理解していない点が問題なのです。

司会の女性が質問するキーワードも技術用語、とくにCMとして知ってもらいたいコトバを軸に対談がされています。

本来、ユーザの側が質問をしたいのは動画利用の場面でこんな困ったことがあるといったストーリーからです。そこが語られずに、いきなりCM側の技術のコトバでは視聴者に違和感は最初からあるのも当然ということになるでしょう。

匠英一のソーシャル・メディア論(その4)

<顧客コミュニティの視点からのソーシャルメディア活用>

顧客がブランドを育てる視点(1):「顧客=“ターゲット”」の視点は誤り?

顧客コミュニティの戦略を理解するうえで、重要なことは顧客自体の根本の認識の仕方です。ここで強調しておきたいことは、従来のように広告・販促の“ターゲット”という狩猟的なメタファー(比喩)による見方ではありません。

ではどういう視点かということですが、企業側は役者であり顧客側はそれを支えるファンの関係という 演劇メタファーで理解することです。

演劇では役者自身は観客であるファンの質が高ければ高いほど、自らの演技にも熱が入り質が高くなるという相互関係があることが知られています。つまり、良い役者(企業)は良いファン(顧客)が育てるというわけです。

顧客コミュニティ創りで求められることは、企業が顧客を囲う発想というよりも、「顧客がブランド(企業と商品)を育てる」というようなコミュニティにする視点と方法です。これはCRM(顧客関係性管理)の理想的な関係といえますが、実際にソーシャル型のコミュニティ戦略でそれを実現してきた事例があります。

例)イビサ、P&G、ユニクロ、丸大ハム

  *上記の企業のそれぞれの分析検討は別途論文にて参照のこと。

 

顧客がブランドを育てる視点(2):「市場シェア」でなく「顧客シェア」、さらに「マインドシェア」へ

左記のような事例からわかることは、あまり完璧な計画や企業側の戦略を大上段に構えないほうがうまくいくことです。これは家庭で子育てをするのと似ているかもしれません。親が完璧な計画を創り過ぎて子どもが依存心を持ってしまい、結果としては自立できない関係を親側が作ってしまうわけです。

マーケティングは戦略が大事なことは確かですが、それは企業側がいつも主導することではなく、相手側に任せる部分を演劇メタファーの視点から位置づけることです。

その第1は、ネット上での「顧客シェア」を向上させることです。

一般に「顧客シェア」とは、個々の顧客に占める当社の購買額や貢献度の割合を意味します。そのマーケット上での「市場シェア」に対比されるCRMの原則でもありますが、顧客自身の心の中にわが社がどれだけ重要とみなされているか、という「マインドシェア」の考えも基本は同じことです。

それは顧客の心のシェアですので金銭的なシェアやメリット性ではありません。日本語の“おもてなし”の心で対応してこそ得られる顧客側の“感謝”の心だといえます。そんなことはビジネスライクな行動とは相反するようにもみえます。しかし、「マインドシェア」はそうした心理を問題にしています。

すでに述べたイビサ社の例では、顧客からの手紙という形でマインドシェアが全社員に“見える化”されてきました。吉田会長の経営戦略はまさにマインドシェアを柱にしたものでした。

顧客がブランドを育てる視点(3):「定量化」の意義

米国のネット通販で躍進したザッポス社は、そのマインドシェアを最大にする戦略で成功したともいえます。顧客シェアの利点は、個々の顧客の動きを把握しようとする意識が従業員にも生まれることです。定量的にそれを把握することは現実には難しいわけですが、それでもザッポスは定量化にもこだわりを持ち、KPI(重要行動指標)やKGI(重要成果目標)を明確にした経営スタイルを貫いています。

80年代からブームとなってきた「顧客満足経営」と、2000年代からのCRMが日本では混同されていますが、これは似て非なるものと考えたほうがよいでしょう。

富山の薬売りや「三河屋」のストーリーも有名ですが、CRM本来の顧客戦略とは異なります。日本型の顧客戦略と区別するうえで重要なのが、この定量化という部分です。ここを明確に理解していないために、いつまでも「顧客満足経営」から出ることができない企業も多いのです。ソーシャルネットの時代において、顧客戦略は定量化の課題と不可分であることに留意することです。

顧客が満足したかどうかは、ビジネスとしては次もまた購入してくれるかどうかで決まります。この継続購入の率が顧客満足度と結びついていることは明らかですが、それを数字で表す「定量化」がCRMであり、「顧客ロイヤルティ」(“ファンド”に近い意味)の土台ともなるものです。

また、CRMは「定量化」ともう一つの「顧客見える化」が実践上のポイントなるものです。それは両方とも三河屋の実践など伝統的な日本経営にはみられません。「顧客見える化」には、顧客側の行動やニーズの見える化と企業側の社員(企業)側の業務や成果の見える化があります。

それぞれを顧客との関係から統合する視点がCRMだともいえますが、次回ではより深くソーシャルメディアによる「顧客見える化」を検討してみましょう。

匠英一のソーシャル・メディア論(その3)

<ネットワークがもたらす「シェア化」と消費者心理の動向>

消費者心理の変化(1):「シェア」する文化への転換

2000年を前後からインターネットに新しい波「ソーシャル化」が登場し、消費行動が変わり始めました。変わったものが消費者の個々の行動というよりも、よりインパクトを持つ消費者の層の変化をみる必要があります。そこからソーシャルの意味づけも加わり、マーケティング全体の革新の潮流も生まれているからです。

第1の変化は、消費者自身の「所有欲求」ということです。

マイカーやマイハウスといった大型消費の対象は、「所有」されるものではなく「シェア」するものという考え方がクローズアップされてきています。自動車をレンタルカーとして借りて使用することは以前からサービスとしてありました。レンタルサービスにはビデオ・DVDや貸本など身近なものもあり、あえてここで共有文化という「シェア」の在り方が問われていたのではありません。これらは、一時的にしか価値を持たない商品であって、購入して継続的に利用する意味がなかったものだからです。

ところが、“カーシェアリング”のサービスにみられるものでは、それを単発ではなく常時使用し、自分のプライベートな生活空間を形づくるコアなものとみなす点です。

自動車は購入の際にも慎重に、自分らしさやブランドイメージにこだわったりするものです。それにもかかわらず、どうして他者と共有して利用することが可能になってきたのでしょうか。

そこには「シェア」の現代的な意味があるということです。消費者が互いにモノを共有しあうという新しい消費行動が、モノの消費を大きく変えると同時にネットワーク情報の価値を高める要因にもなっているのです。

消費者心理の変化(2):「シェア」による顧客の新しい経験価値創りへ

モノの商品価値がコモディティ化の波の中で、どんどん薄れていくと同時に一方ではディズニー等の新しいサービスの”経験”が求められるようになってきています。そのような市場の変化の中で、モノを持つ所有型のビジネスモデルは崩壊しつつあります。それは自動車だけでなく、住居から家財道具などのあらゆるビジネスに浸透させる仕組みが始まっていることからも明らかです。

そこにあるのは、モノを所有する経験価値の根本的な見直しです。そして、自分らしさや共感を求める心理のマーケティング理論をどう考えるかという課題なのです。

認知科学(心理学)との関連で、この新しい経済と消費の変化を分析してみるとどうなるでしょうか。

第一には、人が“合理的”な経済価値(損得感)によって動くのではないことを実証してきたことがあります。

この「行動経済学」という科学は、2002年に認知心理学者であったダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーらが確立したものです。それは経済分野でノーベル賞を受けたことで一躍知られることになったのですが、いかに“感情”によって消費行動が支配されているかを実証しました。

たとえば、損得感の問題などは、一見すると誰でも合理的に考え行動し、損するようなことはしないと思っています。ところが、人は同じ額なら損をしないほうを90%以上の確率で選ぶ、といった実証研究で示したわけです。

ネットワーク化とシェア化の比例的な関係

第二にあげられことは、シェア化のビジネスを加速させているのはネットワーク化ということです。

ネットの拡大は必要なモノを必要な場や時間でシェアしていく情報を飛躍的に拡大させました。つまり、「ネット化=シェア化」という関係式が成り立つのです。

シェア化によって所有による消費者の経験価値よりも高い価値が生まれてきています。その背景要因には、商品ライフサイクルが技術革新で早まり新商品もすぐに陳腐化すること、またグローバルな競争環境の中で商品のコモディティ化が進んでいることがあげられます。新しい商品が出ても、すぐに別の高機能な商品がとって代わるとすれば、所有するリスクのほうが高くなってくることは明らかなのです。

たとえば、今やタンスのような高級家具や洗濯機の電化製品などは、廃棄処分のコストのほうが新品を買うより高くなることさえ起ってきます。エコ運動の高まりとともに、メーカーは廃棄処理のリスクを負うことになり、個人でも引っ越し時には本箱のような家具でさえ数千円も廃品回収料で取られたりします。

こうしたことからも、メーカーや販社がリサイクル可能なシェア型のビジネスモデルを確立するほうが環境問題からしても効果的です。

また、社会全体からみてもシェア化には環境や資源を有効に利用していくメリットがあります。

ただし、こうしたシェアの拡大がすぐに「モノへのこだわりがなくなってきた」という見方は一面しかみない短絡的なものです。

こだわりの心理的意味は、利便性や経験価値の内容とのバランスによって変わってくるものであり、特定のモノへの執着心がないから消費行動が弱まると考えるのは誤りだからです。あくまで、そのシェアによってもたらされるコストと経験価値のバランスが問題なのです。

シェアを軸とした新しい消費行動スタイルは、従来になかった経験価値の内容を創出していると考えるべきでしょう。自動車であれば、今月はトヨタで来月は日産に乗ることもできるわけであり、オプションの広がりと多様な機能を“試行”できます。 また、その購入後に商品の不具合がわかって、後で取り換えができないような購入リスクも避けることができます。

こうした所有リスクをなくすシェア化は、ネット環境がユービキタス(全域化)な広がりを持つほど顧客のベストマッチへと保証されるものとなってきます。

匠英一のソーシャル・メディア論(その2)

<ネットマーケティング戦略としての「ゲーミフィケーション」>

「ゲーミフィケーション」の2つの意

ゲームによって感動や喜びを創るノウハウをあらゆるビジネス領域に応用しようとするメソッドが「ゲーミフィケーション」と称して注目されるようになってきています。

消費者(顧客)にいかに新しい消費経験の価値を与えるかは今やサービス重視の戦略の柱だからです。

その新しい経験価値として、「ゲーミフィケーション」は、次の2つのことを区別しておく必要があると考えます。

  1. 一般的な消費者の行動や購買ルールをゲーム機能を用いて「ゲーム外化」するもの
  2. ゲーム行動の領域の中に消費者の行動を取り込んで「ゲーム内化」するもの

この2つは結果が同じようなゲーム的要素を持つとしても、その発生の仕方が逆方向であるものです。

前者の「ゲーム外化」とは、モノ自体の消費価値(利用によるメリット)を「ゲーム的経験」に置き換えていくものです。これは一般的なゲーミフィケーションであって、いかにして通常の消費行動にゲームの機能を取り入れてゲームらしい経験にするかが課題となります。例えれば、ランク付けやポイント制などのゲーム機能を通常の消費行動に追加していくイメージです。

たとえば、フォースクエアのような観光地でのGPS情報を利用した宝探しゲームがあります。商店街などで単に個別のブランドをアピールしても買う動機にはつながりません。そこで、「宝探し」というゲームとして各商店の商品をモバイルで探し出し、競わせることで新たな発見や競争の楽しみを与えることができるのです。

ゲーム自体は既存の宝探しというルールに沿うものですが、その場所が観光地であり、モノが商店街の商品となるならビジネス価値が発生するわけです。ただし、ここで何が顧客にとっての価値となるか、マーケティングとして仮説検証する必要があります。

同じような商品であっても、ゲームの場でより活きるような商品もあれば、無意味なものもあります。その比較や前提の検証といったことがマーケティングとして行われなければ、せっかくのフォースクエア利用もただの遊びと化してしまうのです。

フォースクエアには、ネットとリアルの場との連携が不可欠になる要素が豊富にあり、その意味では時間と空間(地理)の情報を紐付けしたビジネスモデルの宝庫ともなるものです。

「ゲーミフィケーション」の2つの意

一方、後者の「ゲーム内化」のほうはゲーム自体の中に消費行動やビジネス価値となるルールなど取り入れていくものです。出発点がゲーム在りきだということです。

パチンコはゲームそのものですが、パチンコビジネスはその土台に当たる環境です。もし、パチンコをソーシャルゲーム的なものにしネット上で始めるとどうなるでしょうか。そこには物理的な玉はないにしても、穴に入る仕掛けがあり、玉の入りによってインセンティブを与えることができます。それをポイントとして複数の提携したネットショップで商品と交換できるなら、そこには「ゲーム内化」があるといえます。

あるいは、ソーシャルゲームの場にビジネスとしての利用度を上げる仕掛けを作るなどの方法もあります。

ソーシャルゲームのブームによってもわかるように、ネットとゲームとの相乗効果は明らかです。ところが、残念なことに「コンプリートガチャ」(通称コンプガチャ)の問題が社会的な話題ともなり規制が厳しく行われるようになってきています。

確かにうまく利用すれば、劇的な効果を作り出すと期待されているだけに、戦略を間違うと壊滅的なダメージを与えることにもなるのです。

「ゲーム外化」としてのゲーミフィケーションの事例

協和発酵キリン社は「サンダーバードコーポレーション」という会社を設立し、人材募集も始めています。実際のサイト上に掲載されている「あいさつ」の文も次のようなストーリー性を貫いた表現となっています。

「 国際救助隊サンダーバードでは、世界各地で発生した事故や災害において、迅速、且つ確実な人命救助活動を行ってきました。 一方、このサンダーバード・コーポレーションでは、 国際救助の活動で培われてきた経験と実績をフルに活かし、人類の脅威である“病気”からひとりでも多くの人を救うべく、新しい医療の調査・研究をして参ります。 現在、調査・研究の中心は「個別化医療」と「抗体医薬」です。 」

協和発酵キリン社「サンダーバードコーポレーション」

(出典:http://www.kktblab.jp/

協和発酵の「サンダーバード・コーポレーション」を作ったねらいは、「抗体医薬の知識」の学習と啓蒙を促進することであり、ポイントやフォギアの形で見える化していくことでした。

「個別化医療」と「抗体医薬」の啓蒙をネット上から行うことで、会員登録してもらうという顧客コミュニティの戦略だといえます。

そこでは職位のランクアップあり、有能感が演出されるともに、デスク上にフィギュアを配置できるようにしてクリエイティブな楽しさを作り出しています。

そして、「サンダーバード」というストーリーの世界に参加しながら、ファン作りに役立てているものと考えられます。

また、別の事例として有名なのは、コカコーラ社の自販機に名前を付けてQRコードからスマートフォンに入り、そこで自販機のキャラクターが表れるという着せ替えゲームです。これはすでに本年6月時点で、全国で82万台の自販機が設置されており、32万人が利用したと報告されています。

成果を出したという点では、ドクターシーラボの事例もよく知られているものです。同社のサイトにある「すごろくゲーム」は、1位2000ポイント=2000円割引となり、その結果同社サイトへのアクセスユーザーが4倍に増えたといいます。成果として、月間売上の1割以上がすごろくゲームから入ったユーザーによるものだとしています。

匠英一のソーシャル・メディア論(その1)

<「Facebook」vs「Google+」の比較から見えてくるソーシャル・メディア戦略の意義>

ソーシャル・メディアのテクニカルな進歩はネットユーザも悩ますものですが、とくにFacebookかGoogle+のどちらがよいかは選択しづらいものです。

しかし、その発展の短い歴史をたどると両者のコンセプトや機能の違いが明確になってきます。すでにGoogle+の入門書も出ていますが、Facebookに比べると1割程度というところですので、ここではGoogle+を重点に検討してみましょう。

 

Google+の機能で特徴的なものは「サークル」という機能です。それはFacebookにも似たものがありますが、ビジネス利用でとくに重要なことは役割(部長や課長など)や組織別での情報公開をどう限定するかです。ここでの明確な“区分け”をコントロールできる点が問題なのです。つまり、個人情報の扱いも含めてFacebookが問われたことは、この区分けが曖昧なために知られたくない情報が相手に伝わるという問題だったからです。

 

Facebookのコンセプトは「友達の友達はまた友達」といったオープンマインドなものです。実名主義もその趣旨に沿うものですが、これは友達が大学レベルの関係なら問題はなく、多くの友達が増えることと自己メリットはほぼ一致していました。Facebookは大学の友人作りから始まった歴史からもその情報公開の戦略は自社のコアでもあり、譲れないところだということがわかります。

 

ところが、ビジネスではその情報の実名性とオープン化がトラベルの原因ともなってくるケースがあるのです。私自身(匠英一)も単一のパーソナリティでメディアに登場しているわけではありません。マスコミでは「心理学者」という顔を持ってTVに出て、また他方ではCRM協議会創設者・事務局長だったということから「CRMコンサルタント」の企業向けの顔があります。さらに学術上の分野で大学教授でもあるわけですが、どの顔も相手側に見せる場合、ひとつの面を強調しておかなくては混乱を起こすことになりかねません。

企業であればブランドイメージの統一ということですが、ビジネス上とくにこうした複数の顔(役割)を持つことは程度の差はあっても普通のことです。Google+はこの面できわめて優れており、最初からこうした情報制限を相手に応じてするサークル機能を重視して作られているのです。

 

そして、この視点は社会心理学者や人類学者などを投入して“ソーシャル性”の内容をよく研究した成果だともいわれています。確かに人の関係性は複雑であり、役割・地位などに応じて私たちは自分の性格から行動パターンまで変わることがわかっているからです。

 

たとえば、「交流分析」(エゴグラム)というメソッドは心理療法でも有名ですが、人の性格を5つのタイプの混合物とみなすものでした。それはきびしい父親、温かい母親、理性的な大人、ワンパクな子ども、従順な子ども、という面を併せ持ちながら相手の役割・地位などに応じて重みづけを変えるものと考えるのです。実際に、私たちは会社の部長であれ大学教授であれ、自分の親と体面しているときは子供っぽいコトバを平気で言うし、ワンパクな行動をしたりするわけです。そのやり取りのコメントが仮にどこかのツイッターで書いたものがリツイートされて、会社の上司が見たりしたらどうでしょうか。「こんなわがままな奴だったとは・・・」と上司に思われかねないかもしれません。友達関係と異なる経済的な利害のソーシャル性はこうした誤解が致命的なものとなることが多いのです。